欽定禮記義疏
欽定禮記義疏
欽定四庫全書 經部四
欽定禮記義疏 禮類三(禮記之屬/)
提要
(臣/)等謹按
欽定禮記義疏八十二卷乾隆十三年
御定三禮義疏之第三部也經文四十九篇釐為七十七卷附載圖
五卷其詮釋七例亦與周官義疏同三禮以鄭氏為専門王
肅亦一代通儒博觀典籍百計難之弗勝也後儒所見
曽不逮肅之棄餘乃以一知半解譁然詆鄭
氏不聞道韓愈所謂不自量者其是類歟然
周官儀禮皆言禮制禮記則兼言禮意禮制
非考證不明禮意則可推求以義理廣摭羣
言於郊社樂舞裘冕車旗尊彛圭鬯燕飲饗
食以及月令内則諸名物皆一一辨訂即諸
子軼門百家雜說可以恭考古制者亦詳徴
博引曲證旁通而辨說則頗採宋儒以補鄭
注所未備其中庸大學二篇陳澔集說以朱
子編入四書遂刪除不載殊為妄削古經今
仍録全文以存舊本惟章句改從朱子不立
異同以消門户之爭盖言各有當義各有取
不拘守于一端而後見
衡鑒之至精也至于
御纂諸經易不全用程𫝊本義而仍以程𫝊本義居
先書不全用蔡𫝊而仍以蔡𫝊居先詩不全
用朱𫝊而仍以朱𫝊居先春秋于胡𫝊尤多
所駁正刋除而尚以胡𫝊標題列三𫝊之次
惟禮記一經于陳澔集說僅棄瑕録瑜雜列
諸儒之中不以冠首仰見
睿裁精審務恊是非之公尤足正胡廣等禮記大
全依附門牆隨聲標榜之謬矣乾隆四十六
年十月恭校上
總纂官(臣/)紀昀(臣/)陸錫熊(臣/)孫士毅
總 校 官 (臣/) 陸 費 墀
欽定四庫全書 經部四 禮類三(禮記之屬/)
欽定禮記義疏凡例
一
本朝崇尚經術周易折中奉
聖祖御纂後詩書春秋次第成編兹
特命儒臣纂修三禮
欽定折衷於是五經炳備咸正無缺惟禮記經文既多
註釋繁富故簡帙逾舊今勒成七十有七卷圖
五卷共八十二卷
一說禮諸家或専尚鄭孔或喜自立說而好排注
疏紛紛聚訟兹各虛心體究無所専適惟說之
是者從之至於義理之指歸一奉程朱為圭臬
云
一三禮同為聖典而戴記旨非一端必博徵羣籍
以求精解確證故自竹書汲冢周秦諸子帝王
世紀及史漢等皆在採錄其諸儒由鄭氏而下
至
本朝儒家専訓戴經外或註他經或在別說義有當
引咸採擇以入案中不另標姓氏其宋元以來
或𠞰說雷同蕪蔓冗陋無足𤼵明者皆屏汰不
錄
一經文如玉藻王制諸篇有先後錯簡宜更正者
止於注内表明之諸家或未詳究則以案語𤼵
之而文仍舊本無専輒改易用昭遵古之義惟
月令樂記章句稍有併合分析為便於訓釋也
一經文字樣間有不同如九齡或作九聆九鈴等
竝附出本文下
一中庸大學二篇自宋大儒編為四書其後俗本
禮記遂有止載其目而不列其文者兹仍曲臺
之舊以尊全經以存古本兼輯朱註以示準繩
而正義等條概置勿用
一禮經名物度數尤當精審極究辨是非而正異
同故注中於郊社樂舞裘冕車旗尊彝圭鬯燕
飲饗食及月令紀候之物内則有事之文皆再
三考訂研核必求至當而九天六天眀堂大廟
鄭王之殊互今古之參差或駁或甄要取歸於
不惑其有去古既逺類不可以强通者則從闕
疑
一每經文下講說諸家各以時代為次代同者則
以其人之先後為次所引注疏間或先孔後鄭
者則因經文之先後次之
一每經文下釋詁辨析互引旁連說或兼存義有
總括先正義次通論餘論次存疑存異次辨正
次案次總論如案繫辨正則列在存疑存異後
若但𤼵明經義則列在存疑存異前七十七卷
統歸畫一
一先儒稱鄭氏康成稱周程張朱子及稱姓名若
某氏某曰等體例亦歸畫一
一孔疏或釋注或闡經旨各分大小書之與周官
儀禮賈疏一例
一所引注疏或仍其全文或節其要義有刪無增
亦無改
一古注疏每篇目下必有解題著所以名篇之意
今自鄭孔外凡諸家有所論說皆採取其要使
一篇大旨開卷即明
一月令一篇諸家所論得失不同今採周書時訓
吕不韋書淮南子及唐月令各附於下而以時
憲書較當時節候以備參考
一禮記雖雜成於漢儒然微言大義往往斯在即
以檀弓事或𫝊疑明堂位辭多夸越王制與周
官孟子各有牴牾亦必詳求義訓不附會亦不
武斷
一校正字體㸃畫無訛一遵康熙字典
一古六經皆有圖蓋左圖右史所以按驗而便稽
考也兹編既成復因禮器三禮諸圖之舊損益
為圖并加圖說俾窮經者瞭如指掌
引用姓氏
周
荀氏(况/)
漢
董氏(仲舒/) (寛夫/) (廣川/)
毛氏(萇/) (趙郡/)
司馬氏(遷/) (子長/) (龍門/)
孔氏(安國/) (子國/) (曲阜/)
戴氏(徳/) (延君/) (譙國/)
戴氏(聖/) (次君/)
劉氏(向/) (子政/)
劉氏(歆/) (子駿/)
杜氏(子春/) (緱氏/)
班氏(固/) (孟堅/) (扶風/)
賈氏(逵/) (景伯/)
仲氏(長統/) (公理/) (髙平/)
鄭氏(興/) (少贑/)
鄭氏(衆/) (仲師/)
馬氏(融/) (季長/) (扶風/)
許氏(慎/) (叔重/)
服氏(䖍/) (子愼/)
盧氏(植/) (子幹/) (涿郡/)
何氏(休/) (邵公/) (任城/)
鄭氏(𤣥/) (康成/) (髙密/)
趙氏(岐/) (邠卿臺卿/一字)
蔡氏(邕/) (伯喈/) (陳畱/)
髙氏(誘/)
應氏(劭/) (仲瑗仲南頓/一作 逺)
劉氏(熙/) (成國/)
李氏(廵/)
田氏(瓊/)
王氏(肅/) (子邕/)
孫氏(炎/) (叔然/) (樂安/)
蘇氏(林/) (孝友/) (陳畱/)
譙氏(周/) (允南/) (西充/)
韋氏(昭/) (𢎞嗣/) (雲陽/)
射氏(慈/) (孝宗/)
何氏(晏/) (平叔/) (南陽/)
晉
杜氏(預/) (元凱/) (當陽/)
孫氏(毓/)
郭氏(璞/) (景純/) (聞喜/)
范氏(寗/) (武子/)
傅氏(咸/) (長虞/) (義渠/)
賀氏(循/) (彥先/) (山隂/)
徐氏(邈/) (仙民/) (姑幕/)
劉氏(智/) (子房/) (髙唐/)
宋
庾氏(蔚之/) (潁川/)
范氏(曄/) (蔚宗/) (順陽/)
梁
賀氏(瑒/) (徳璉/) (山隂/)
崔氏(靈恩/) (東武城/)
何氏(𦙍/) (子季/) (潛江/)
皇氏(侃一作皇甫/) (吳郡/)
北魏
徐氏(遵眀/) (子判/) (華陰/)
李氏(謐/) (永和/)
袁氏(翻/)
北齊
熊氏(安生/) (植之/) (阜城/)
隋
王氏(通/) (仲淹/) (文中子/)
唐
陸氏(元朗/) (徳眀/) (吳縣/)
魏氏(徴/) (元成/)
孔氏(穎達/) (仲達沖衡水/一作 逺)
賈氏(公彦/) (洺州/)
顔氏(師古/) (籀/) (萬年/)
張氏(守節/)
杜氏(佑/) (君卿/) (萬年/)
趙氏(匡/) (伯循/) (河東/)
邱氏(光庭/)
韓氏(愈/) (退之/) (昌黎/)
柳氏(宗元/) (子厚/) (河東/)
成氏(伯璵/) (中山/)
宋
聶氏(崇義/) (洛陽/)
孫氏(奭/) (宗古/) (博平/)
邢氏(昺/) (叔明/)
歐陽氏(修/) (永叔/) (廬陵/)
曾氏(鞏/) (子固/) (南豐/)
劉氏(敞/) (原父/) (公是/)
劉氏(攽/) (貢父/) (公非/)
司馬氏(光/) (君實/) (涑水/)
王氏(安石/) (介甫/) (臨川/)
何氏(洵直/)
王氏(昭禹/) (光逺/) (東巖/)
方氏(慤/) (性夫/) (嚴陵/)
馬氏(睎孟/) (彥醇/)
劉氏(彝/) (執中/) (長樂/)
李氏(格非/) (文叔/) (濟南/)
陸氏(佃/) (農師/) (山陰/)
劉氏(安世/) (器之/) (元城/)
周子(敦頤/) (茂叔/) (濂溪/)
程子(顥/) (伯淳/) (明道/)
程子(頤/) (正叔/) (伊川/)
張子(載/) (子厚/) (横渠/)
范氏(祖禹/) (淳夫/) (華陽/)
蘇氏(軾/) (子瞻/) (東坡/)
顧氏(臨/) (子敦/)
劉氏(恕/) (道原/) (京兆筠州/一作)
黄氏(敏求/) (演山/)
黄氏(裳/) (冕仲/) (延平/)
周氏(諝/) (希聖/) (延平/)
吕氏(大臨/) (與叔/) (藍田/)
周氏(行已/) (恭叔/) (浮沚/)
吕氏(希哲/) (原眀/) (滎陽/)
彭氏(汝礪/) (器資/) (鄱陽/)
李氏(覯/) (泰伯/) (盱江/)
晁氏(說之/) (以道/) (嵩山/)
沈氏(括/) (存中/) (夢溪翁/)
楊氏(時/) (中立/) (龜山/)
陳氏(祥道/) (用之/) (三山/)
陳氏(𤾉/) (晉之/)
胡氏(安國/) (康侯/) (崇安/)
范氏(成大/) (致能/) (吳郡/)
葉氏(夢得/) (少藴/) (石林/)
慕容氏(彥逄/) (叔遇/) (毗陵/)
胡氏(銓/) (邦衡/) (廬陵/)
應氏(鏞/) (子容/) (金華/)
髙氏(閌/) (抑崇/) (息齋/)
程氏(迥/) (可久/) (沙隨/)
程氏(大昌/) (泰之/) (休寕/)
鄭氏(樵/) (漁仲/) (夾漈/)
洪氏(适/) (景伯/) (鄱陽/)
洪氏(邁/) (景盧/) (容齋/)
王氏(蘋/) (信伯/) (福清/)
林氏(之奇/) (少穎/) (三山/)
髙氏(文彪/) (㑹稽/)
胡氏(寅/) (明仲/) (致堂/)
胡氏(宏/) (仁仲/) (五峯/)
林氏(光朝/) (謙之/) (艾軒/)
張氏(栻/) (敬夫/) (南軒/)
吕氏(祖謙/) (伯恭/) (東萊/)
朱子(熹/) (元晦/) (紫陽/)
薛氏(季宣/) (士龍/) (永嘉/)
史氏(浩/) (直翁/) (四明/)
陸氏(九淵/) (子静/) (象山/)
陳氏(傅良/) (君舉/) (止齋/)
王氏(炎/) (晦叔/) (雙溪/)
唐氏(仲友/) (與正/) (金華/)
葉氏(適/) (正則/) (水心/)
項氏(安世/) (平甫/) (括蒼/)
黄氏(度/) (文叔/) (山陰/)
鄭氏(鍔/) (剛中/) (三山/)
李氏(舜臣/) (子思/) (隆山/)
黄氏(榦/) (直卿/) (勉齋/)
輔氏(廣/) (漢卿/) (慶源/)
蔡氏(沈/) (仲黙/) (九峯/)
楊氏(復/) (信齋/) (秦溪/)
楊氏(簡/) (敬仲/) (慈湖慈溪/一作)
沈氏(清臣/) (正卿/) (晦巖/)
游氏(桂/) (元𤼵/) (廣安/)
陳氏(騤/) (叔進/) (天台/)
易氏(祓/) (彥祥彥山齋/一作 章)
葉氏(時/) (秀𤼵/) (竹埜/)
顧氏(元常/) (平甫/) (新定/)
陳氏(淳/) (安卿/) (北溪/)
林氏(椅/) (奇卿/)
沈氏(煥/) (晦叔/) (四明/)
邵氏(淵作囦萬宗/一) (金華/)
徐氏(自明/) (誠甫/) (永嘉/)
戴氏(溪/) (少望肖岷隠/一作 望)
祝氏(穆/) (和父/)
潘氏(植/) (子醇/) (浦城/)
張氏(逸/) (大隠/)
莊氏(夏/) (子禮/) (永春/)
晁氏(公武/) (子止/) (昭徳/)
趙氏(汝騰/) (茂實/)
眞氏(徳秀/) (景元希西山/一作 元)
魏氏(了翁/) (華父/) (鶴山/)
王氏(與之/) (次㸃/) (東巖/)
范氏(鍾/) (仲和/) (金華/)
嚴氏(粲/) (坦叔/) (華谷/)
黄氏(仲炎/) (若晦/) (永嘉/)
李氏(冶/) (敬齋/)
衛氏(湜/) (正叔/) (崑山/)
張氏(虙/) (四明/)
陳氏(埴/) (器之/) (潛室/)
劉氏(孟冶/)
饒氏(魯/) (仲元/) (魯齋/)
王氏(應麟/) (伯厚/) (深寧叟/)
熊氏(禾/) (去非/) (勿軒/)
馬氏(廷鸞/) (翔仲/) (碧梧/)
朱氏(申/) (周翰/) (建安/)
林氏(希逸/) (鬳齋/)
黄氏(震/) (東𤼵/) (慈溪/)
陳氏(振孫/) (伯玉/) (直齋/)
家氏(鉉翁/) (則堂/) (處士/)
元
馬氏(端臨/) (貴與/) (鄱陽/)
敖氏(繼公/) (君善/) (長樂/)
吳氏(澄/) (幼清/) (臨川/)
金氏(履祥/) (吉甫/) (仁山/)
熊氏(朋來/) (與可/)
陳氏(澔/) (可大/) (東匯/)
程氏(復心/) (婺源/)
陳氏(櫟/) (定宇/) (新安/)
彭氏(應龍/) (翼夫/) (集齋/)
戴氏(侗/)
彭氏 (亷夫/)
虞氏(集/) (伯生/) (邵庵/)
李氏(亷/)
彭氏(絲/) (魯叔/) (魯齋/)
明
劉氏(基/) (伯溫/) (青田/)
王氏(褘/) (子充/) (金華/)
汪氏(克寛/) (徳輔/) (環谷/)
方氏(孝孺/) (希古/) (正學/)
邵氏(寳/) (國賢/) (二泉/)
邱氏(濬/) (仲深/) (瓊山/)
羅氏(欽順/) (允昇/) (整菴/)
吕氏(柟/) (仲木/) (涇野/)
何氏(孟春/) (子元/) (郴州/)
魏氏(校/) (子才/) (莊渠/)
姚氏(舜牧/) (虞佐虞承庵/一作 颺)
徐氏(師曾/) (伯魯/) (魯庵/)
季氏(本/) (明徳/) (彭山/)
王氏(應電/) (昭眀/) (明齋/)
鄧氏(元錫/) (汝極/) (潛谷/)
郝氏(敬/) (仲輿/) (楚望/)
吕氏(坤/) (叔簡/) (新吾/)
余氏(心純/) (葵明/) (黄崗/)
王氏(圻/) (洪州/)
黄氏(乾行/) (玉巖/)
張氏(怡/)
楊氏(鼎熙/) (緝庵/)
芮氏(城/) (巖尹/) (溧陽/)
秦氏(繼宗/)
何氏(兆清/) (聖徵/) (吳中/)
湯氏(三才/) (中立/) (丹陽/)
盧氏(翰/)
孫氏(佖/) (眉山/)
晏氏(光/)
李氏(開/) (去非/) (小舟/)
王氏 (石梁/)
吳氏(華/)
張氏(燧/)
史氏(駉孫/)
毛氏(信卿/)
蔣氏(君實/)
胡氏(迥/)
王氏(子墨/)
董氏(瑋/)
王氏(喬桂/)
董氏(師讓/)
詹氏(道𫝊/)
董氏(應𤾉/)
孫氏(景南/)
徐氏
李氏
虙氏
張氏
彭氏
王氏
許氏
(以上二十四人未詳世次今附/於此)
欽定四庫全書
欽定禮記義疏目錄
卷首
聖制
綱領
卷一
曲禮上第一之一
卷二
曲禮上第一之二
卷三
曲禮上第一之三
卷四
曲禮上第一之四
卷五
曲禮上第一之五
卷六
曲禮下第二之一
卷七
曲禮下第二之二
卷八
曲禮下第二之三
卷九
檀弓上第三之一
卷十
檀弓上第三之二
卷十一
檀弓上第三之三
卷十二
檀弓下第四之一
卷十三
檀弓下第四之二
卷十四
檀弓下第四之三
卷十五
王制第五之一
卷十六
王制第五之二
卷十七
王制第五之三
卷十八
王制第五之四
卷十九
王制第五之五
卷二十
月令第六之一
卷二十一
月令第六之二
卷二十二
月令第六之三
卷二十三
月令第六之四
卷二十四
月令第六之五
卷二十五
月令第六之六
卷二十六
曾子問第七之一
卷二十七
曾子問第七之二
卷二十八
文王世子第八之一
卷二十九
文王世子第八之二
卷三十
禮運第九之一
卷三十一
禮運第九之二
卷三十二
禮運第九之三
卷三十三
禮運第九之四
卷三十四
禮器第十之一
卷三十五
禮器第十之二
卷三十六
郊特牲第十一之一
卷三十七
郊特牲第十一之二
卷三十八
郊特牲第十一之三
卷三十九
内則第十二之一
卷四十
内則第十二之二
卷四十一
玉藻第十三之一
卷四十二
玉藻第十三之二
卷四十三
玉藻第十三之三
卷四十四
明堂位第十四
卷四十五
喪服小記第十五之一
卷四十六
喪服小記第十五之二
卷四十七
大傳第十六
卷四十八
少儀第十七
卷四十九
學記第十八
卷五十
樂記第十九之一
卷五十一
樂記第十九之二
卷五十二
樂記第十九之三
卷五十三
雜記上第二十之一
卷五十四
雜記上第二十之二
卷五十五
雜記下第二十一之一
卷五十六
雜記下第二十一之二
卷五十七
喪大記第二十二之一
卷五十八
喪大記第二十二之二
卷五十九
祭法第二十三
卷六十
祭義第二十四之一
卷六十一
祭義第二十四之二
卷六十二
祭統第二十五
卷六十三
經解第二十六 哀公問第二十七
卷六十四
仲尼燕居第二十八 孔子閒居第二十九
卷六十五
坊記第三十
卷六十六
中庸第三十一之一
卷六十七
中庸第三十一之二
卷六十八
表記第三十二
卷六十九
緇衣第三十三
卷七十
奔喪第三十四 問喪第三十五 服問第三十
六
卷七十一
閒𫝊第三十七 三年問第三十八
卷七十二
深衣第三十九 投壺第四十 儒行第四十一
卷七十三
大學第四十二
卷七十四
冠義第四十三 昏義第四十四
卷七十五
鄉飲酒義第四十五 射義第四十六
卷七十六
燕義第四十七 聘義第四十八
卷七十七
喪服四制第四十九
卷七十八
禮記圖一
卷七十九
禮記圖二
卷八十
禮記圖三
卷八十一
禮記圖四
卷八十二
禮記圖五
欽定四庫全書
欽定禮記義疏卷首
聖制
天以隂陽五行化生萬物四時宣其氣百昌欣其榮而
於穆不巳之理主宰其中者本至易而無難也地有山
川河嶽涵負萬類飛走動息之各安其居𤼵生長養之
各順其序而安貞順應之徳根柢其内者本至簡而無
繁也樂由天作其極也如乾之易禮以地制其極也如
坤之簡是故行綴兆興羽籥作鐘鼔非所謂易也而易
在其中几筵升降酌獻酬酢非所謂簡也而簡寓其内
本之於中者和而愛則聞其樂者皆知親其親本之於
中者和而敬則見其禮者皆知尊其尊尊尊而親親易
簡之本也故樂至則無怨禮至則不爭爭則由於不簡
也怨則由於不易也豈所語於聖人之揖讓而治天下
者耶夫不能極禮樂之至則不能易簡不能易簡則不
能化成天下彼淫樂慝禮之日興無論矣即規規於器
數儀文之末而不得其本原輒曰我能興禮樂也豈有
當哉
軒轅氏命伶倫取嶰谷之竹斷兩節而吹之以為黄鐘
之宫制十二筩以聽鳯之鳴其雄鳴為六雌鳴亦六比
黄鐘之宫而準隔八之法以相生六律之義所由昉也
六律定而度量衡莫不定焉六律所以為萬事根本而
黄鐘又六律之根本也蓋古之聖王其為民之計至深
逺矣為之食以救其饑為之衣以禦其寒處之宫室以
去其昏墊董之學校以化其澆漓猶恐其相欺也為之
斗斛權衡以信之相奪也為之城郭甲兵以衞之司徒
修六禮以節民性明七敎以興民徳大司樂以成均之
義敎王胄子與公卿大夫元士之適子及凡民之俊秀
所以作君作師既富方穀者也然其法天時興地利導
人和以興作勞息莫不以六律為之根本授時以厯而
厯本於律齊民以政而政本於律是故分至寒暑之各
應其時而歲月日時無差也九十分黄鐘之長一為一
分各自其十以登於引則度之長短皆得也黄鐘之管
容子穀秬黍中者一千二百為一龠十龠則合積而至
於斛則量之多寡不忒也一龠之重十有二銖倍之則
兩十六兩為斤三十斤為鈞四鈞為石則衡之重輕不
爽也黄鐘正則六律正六律正則萬事成夫天下至大
也萬事至紛也以一人齊萬事執此以往莫之或差也
此古昔聖王所以能一道徳同風俗也與
月令所云來嵗之宜即象魏所布之政也先王治民原
不期於朝令而暮改也宋室行新法舉周官一歲五歲
三十歲皆有變更之法以附會其說謬矣
天徳王道其本一也一者何曰心而已聖人言王道必
本諸一心然心不可以名象形不可以言語飾不可以
事功論不可以鬼神惕蓋敬鬼神而逺之鬼神亦吾心
中之一物耳論事功則唐太宗致治之盛幾於成康然
於古聖王天徳王道一以貫之者槩乎其未有聞也至
於言語名象更為枝蔓其不可以徵心明矣故記言王
道亦曰心無為也以守至正
記曰人情者聖王之田蓋生民有欲無主乃亂上天眷
命作之君師君師者所以裁成輔相而治其情者也得
其道而理之則其情恊拂其道而驅之則其情亂恊則
天下歸心亂則兆民背叛其機甚微而宗社之安危係
焉故聖王之治人情猶農夫之治田聖王小心畏懼日
昃不遑所以事上帝而畏民碞者凡以治人情而無鹵
莽滅裂之患故大順大化淪肌浹髓萬世之業本於此
焉夫惟施之也有次第是以其成功大而逺彼不以治
理為心而耽晏安者是猶棄田而弗治而霸者假仁仗
義以蘄速成者亦猶揠苖助長均為惑之甚矣
神明而陽乾之屬也鬼暗而隂坤之屬也一陽來復子
月天開先王於是乎行郊祀之禮以迓微陽記云禮行
於郊而百神受職蓋陽氣方倡生物伊始也然禮本於
天而成於地乾徳統天併坤而有之使其稍有不恊則
於陽氣或悖而不足以𤼵生物之機是故先王欽若昊
天對越上帝則風雨節而寒暑時地且受職況百神哉
禮者敬而已矣君子敬以直内如松柏之有心禮之用
和為貴君子和以應物如竹箭之有筠以竹箭之筠較
松柏之心心内而筠外也心為質而筠為文要之外根
於内文本乎質君子之居心即所以應物也誠敬之至
通於神人以之事天饗帝彼徒以威儀玉帛飾諸外者
無其心矣遑問筠哉
少儀云執虚如執盈入虛如有人蓋敎人主敬之學也
夫言主敬敬豈外來哉心與敬二則有時而敬有時而
不敬又安能合盈虚有無而一之哉聖人教人常使人
反身而誠誠在於身又焉用反此其義正與少儀相𤼵
明學者果能與敬合一則能合盈虚有無而一之不見
有敬之可主况有不敬之事乎
鼔無資於五聲五聲不能外鼓以成九奏之諧水無資
於五色五色不能離水以成山龍之繪其在於人内而
五常外而五倫其相接而為内外之樞以備具乎一身
者莫若五官五官不能自治其治之者曰學學之道奈
何亦惟推五常之性以接乎五倫之交俾無不得其宜
而已夫五官質也雜乎氣質之緣則理欲半之盡其學
之之道而恭從明聰睿之徳雖聖賢不是過否則外物
之交己私之錮有不可勝言者非如五聲無鼔五色無
水徒紊其聲敗其色而已也則夫五官之於學豈不較
聲之於鼓色之於水而更重哉
學記曰先王之祭川也皆先河而後海君子之學何以
異是滌性命之原返昭曠之本湛湛然出之無窮之府
引之不竭之淵所以疏其源也逰之乎詩書之圃行之
乎仁義之塗沛然其内充而外達也浩然其日引而月
長也優游漸進不舍晝夜而終必至乎大成所以竟其
委也雖然疏其源而達其委者又豈有所作為也哉孟
子曰如智者若禹之行水則無惡於智矣君子為學無
躁進之志也無穿鑿之巧也順之以自然而待之以積
久至於一旦豁然貫通則達海之𫝑有莫能禦者矣不
然者無萬川之歸又安能不竭於尾閭之洩哉
大禮與天地同節大樂與天地同和禮樂相資而成至
道内以淑其身外以化其民皆猶二氣之保合獨陰不
生獨陽不成也知此則知禮樂不可斯須離矣
記曰報者天下之利夫君子不言利而天地聖人則以
利為四徳之一且以占天下之報者豈不曰報以天下
則天下之報即天下之利以天下之利報天下天地聖
人何容心乎故物之來者報之因其自然而各當其理
各適其性此利之在我者也物之去也報之亦因其自
然而各遂其生各觀其成此利之在物者也利在我而
無我利在物而因物所謂以天下之報普天下之利也
故廓然而大公物來而順應天地無心以萬物為心聖
人無情以萬民為情報者天下之利蓋如是而已矣
表記云君子淡以成夫有人已内外之見者不能淡者
也君子内不見我外不見人與物無親而無物不親譬
之於水無不淡也則無不以淡成也大而江河細而溝
澮非水分也人自分也有分則人我立而水之淡終始
無分也故曰君子如水水惟無已故以水為水可以水
為醴亦可醴水之所成也小人者君子之所曲成也
周之王業雖造於太王王季文武而開皇靈承天眷綿
寳祚撫萬邦實由后稷敎民稼穡肇祀上帝始之故惟
后稷之祀易富亦惟后稷之祀難則也難則維何有后
稷之徳與誠則明水之薦可告馨香無后稷之徳與誠
則雖燦陳乎蒼璧黄琮備列乎鏞鐘賁鼓吾知神之不
享矣古聖人先成民而後致力於神未有民不和而神
降以福者后稷之詳穡事以供粢盛成民者至即所以
事神者誠豈猶有致憾於未備哉迨其後周公作禮樂
漸至文盛而大羮不和犧尊疏布羃樿杓猶祖述先人
之意即以后稷所以事天者事后稷記稱武周為達孝
蓋武周之孝自后稷之祀有以啓之矣
君子求為己則不蘄人之譽求實得則不因有虚名而
自止記曰貴玉而賤䃉此物此志也小人之異於君子
者有二庸懦無成者猶瓦缶之自棄假名要譽者猶以
䃉而亂玉君子依乎中庸温其如玉人不知而不慍遯
世而無悶亦如良玉之在璞已耳孔子欲待價而沽蓋
求而不能待則玉已自失其美矣可不慎乎
欽定四庫全書
欽定禮記義疏卷首
綱領一(此篇論本經源/流及本經精藴)
漢書藝文志曰禮古經五十六卷經十七篇(朱子曰即/今儀禮也)
記百三十一篇(朱子曰七十子/後學所記也)眀堂陰陽三十三篇
(朱子曰古眀/堂之遺事)王史氏二十一篇(朱子曰七十/子後學者)曲臺后
蒼九篇(如淳曰行禮射於曲臺后/蒼為記故名曰曲臺記)眀堂陰陽説五篇
周官經六篇周官𫝊四篇(顔氏師古曰即今周官禮/也亡冬官以考工記充之)
劉氏歆曰易曰有夫婦父子君臣上下然後禮義有所
錯而帝王質文世有損益至周曲為之防事為之制
故曰禮經三百威儀三千
北史儒林傳曰鄭康成為衆經注解易詩書禮論語孝
經大行於河北自魏末大儒徐遵明兼通之其後三
禮並出遵明之門徐𫝊業於熊安生後生能通禮經
者多是安生門人諸生盡通小戴大抵南北所為章
句好尚互有不同禮則同遵於鄭氏
隋書經籍志曰髙堂生𫝊十七篇又有古經出於淹中
(蘇氏林曰淹/中里名也)而河間獻王好古愛學收集餘燼得而
獻之合五十六篇並威儀之事至宣帝時后蒼最明
其業乃為曲臺記蒼授梁人戴徳及徳從兄之子聖
沛人慶普三家並立後漢惟曹充𫝊慶氏以授其子
褒漢末鄭康成𫝊小戴之學後以古經校之取其於
義長者作注為鄭氏學 漢初河間獻王得仲尼弟
子及後學者所記一百三十一篇獻之時亦無𫝊之
至劉向考校經籍檢得一百三十篇向因第而叙之
而又得明堂陰陽説三十三篇孔子三朝記七篇王
氏史氏記二十一篇樂記二十三篇凡五種合二百
十四篇戴徳刪其煩重合而記之為八十五篇謂之
大戴記而戴聖又刪大戴之書為四十六篇謂之小
戴記漢末馬融𫝊小戴之學融又足月令一篇明堂
位一篇樂記一篇合四十九篇而康成受業於融又
為之注今周官六篇古經十七篇小戴記四十九篇
凡三種惟鄭注立於國學其餘並多散亡又無師說
孔氏穎達曰禮記之作出自孔氏但正禮殘闕無復能
明故范武子不識殽烝魯君及趙鞅謂儀為禮至孔
子歿後七十二子之徒共撰所聞以為此記或錄舊
禮之義或錄變禮所由或兼記體履或雜序得失故
編而錄之以為記也中庸是子思伋所作緇衣公孫
尼子所撰鄭康成云月令吕不韋所修盧植云王制
為漢文博士所錄其餘衆篇皆如此例但未能盡知
所記之人也 六藝論云今禮行於世者戴徳戴聖
之學也戴徳傳禮八十五篇則大戴禮是也戴聖傳
禮四十九篇則此禮記是也儒林傳云大戴授瑯琊
徐氏小戴授梁人橋仁字季卿楊榮字子孫仁為大
鴻臚家世傳業
唐元行沖傳曰開元中魏光乘請用類禮(魏徴傳徴以/小戴禮綜彚)
(不倫更作類/禮二十篇)列於經命行沖與諸儒作疏將立之學
張說言戴聖所傳向已千載與經並立不可罷帝然
之
葉氏夢得曰禮家之學五傳弟子分曹教授蓋小戴最
為後出而今之言禮者惟小戴為衆所宗此無他六
經始出諸儒講習未精且未有他書以證其是非歴
時既久諸儒議論既精而又簡書時出於山崖屋壁
之間可以為證而學者得以考同異而長短見矣長
者出而短者廢自然之理也
鄭氏樵曰孝經疏曰經禮三百威儀三千禮記說曰正
經三百動儀三千禮器曰經禮三百曲禮三千中庸
曰禮儀三百威儀三千詳此諸文當時制作本有二
書其三百篇者記言官府職掌上下之序其三千者
皆委曲升降進退之辭漢世后蒼曲臺雜記數萬言
在宣帝時立學官至鄭康成然後訓釋始具至孔穎
達賈公彥而後疏始備 孝宣立大小戴禮至平帝
時復立逸禮世祖中興易尚書詩禮春秋凡十四博
士漢法六經惟立學官然後開弟子員設射策科
朱子曰案禮儀威儀小戴作經禮曲禮而中庸以禮經
為禮儀所謂曲禮則皆禮之微文小節如今曲禮少
儀内則玉藻弟子職篇所記事親事長起居飲食容
貌辭氣之法制器備物宗廟宫室衣服車旗之等凡
所以行乎經禮之中者其篇之全數雖不可知然條
而析之亦應不下三千有餘矣 大戴禮冗雜其好
處小戴採來做禮記了然尚有零碎好處在
陳氏振孫曰漢信都王太傅戴徳延君九江太守聖次
君皆受禮於后蒼謂大小戴禮者也漢初以來迄於
劉向校定中書諸家所記殆數百篇戴徳刪其煩重
為八十五篇聖又刪為四十九篇今行於世而大戴
實存四十篇意其闕者即聖所刪耶然哀公問投壺
二篇與今禮記文不異他亦間有同者(以上論本/經源流)
司馬氏遷曰洋洋美徳乎宰制萬物役使羣衆豈人力
也哉余至大行禮官(索隠曰大行秦官主禮/儀漢景帝改曰大鴻臚)觀三代
損益乃知緣人情而制禮依人性而作儀其由來尚
矣人道經緯萬端規矩無所不貫誘進以仁義束縛
以刑罰故徳厚者位尊祿重者寵榮所以總一海内
而整齊萬民也是以君臣尊卑貴賤之序下及黎庶
車輿衣服宫室飲食嫁娶喪祭之分事有宜適物有
節文
孔氏穎達曰夫禮者經天緯地本之則太一之初原始
要終體之乃人情之欲夫人上資六氣下乘四序賦
清濁以醇醨感陰陽而遷變故曰人生而静天之性
也感物而動性之欲也喜怒哀樂之志於是乎生動
静愛惡之心於是乎在精粹者雖復凝然不動浮躁
者實亦無所不為是以古聖人鑒其若此欲保之以
正直納之以徳義故乃上法圓象下參方載道之以
徳齊之以禮禮者體也履也人之所生禮為大也非
禮無以事天地之神辨君臣長幼之位是禮之時義
大矣哉 禮者理也其用以治則與天地俱興故左
傳稱晏子云禮之可以為國也久矣與天地並但於
時質畧物生則自然而有尊卑若羔羊跪乳鴻雁飛
有行列豈由敎之者哉是三才既判尊卑自然而有
但天地初分之後即應有君臣治國但年代綿逺無
文以言
司馬氏光曰禮之為用大矣哉用之於身則動静有法
而百行備焉用之於家則内外有別而九族睦焉用
之於鄉則長幼有倫而俗化美焉用之於國則君臣
有敘而政治成焉用之於天下則諸侯順服而紀綱
正焉豈直几席之上户庭之間得之而不亂哉
曾氏鞏曰夫禮者其本在於養人之性而其用在於言
動視聽之間使人之言動視聽一於禮則安有放其
邪心而窮於外物哉不放其邪心不窮於外物則禍
亂可息而財用可充其立意微其為法逺矣故設其
器制其物為其數立其文以待其有事者皆人之起
居出入吉凶哀樂之具所謂其用在乎言動視聽之
間者也然而古今之變不同而俗之便習亦異則法
制度數其久而不能無弊者勢固然也故為禮者其
始莫不宜於當世而其後多失而難遵亦其理然也
失則必改制以求其當故羲農以來至於三代禮未
嘗同也 蓋上古聖人有為耒耜者或不為宫室為
舟車者或不為棺椁至於後世有為宫室者不以土
處為不可變也為棺椁者不以衣薪為不可易也豈
好為相反哉以為人之所既病者不可因也又至於
後聖則有設兩觀而更采椽之資攻文梓而易瓦棺
之素豈不能從儉哉以為人情之所好者為之節而
不能變也由是觀之古今之變不同而俗之便習亦
異則亦屢變其法以宜之何必一一以追先王之迹
哉其要在於養民之性防民之欲者本末先後能合
乎先王之意而已此制作之方也故元樽之尚而薄
酒之用大羮之先而庶饈之飽一以為貴本一以為
親用則知聖人作而為後世之禮者必貴爼豆而今
之器用不廢也先弁冕而今之衣服不禁也其推之
皆然然後其所改易更革不至大拂天下之勢駭天
下之情而固已合乎先王之意矣是以羲農以來至
於三代禮未嘗同而制作之如此者未嘗異也
周子曰禮理也樂和也陰陽理然後和君君臣臣父父
子子兄兄弟弟夫夫婦婦萬物各得其理而後和故
禮先而樂後
張子曰禮記如中庸大學出於聖門無可疑者某舊多
疑儒行今觀之亦多善處書一也已見與不見耳
程子曰禮記雜出於漢儒然其間傳聖門緒餘其格言
甚多如樂記學記大學之類無可議者檀弓表記坊
記之類亦甚有至理惟知言者擇之如王制禮運禮
器其書亦多𫝊古意若閒居燕居三無五起之說文
字可疑 禮記除中庸大學惟樂記最為近道學者
深思自得之禮記之表記其亦近道矣乎其言正
古人自灑掃應對以至冠昏喪祭莫不有禮今皆廢
壊 禮之本出於民之情聖人因而導之耳禮之器
出於民之俗聖人因而節文之耳聖人復出必因今
之衣服器用而為之節文其所謂貴本而親用者亦
隨時更斟酌而損益之耳 天下無一物無禮樂且
置兩隻椅子纔不正便無序無序便乖乖便不和
陳氏祥道曰先王之法以禮為本其宫室衣服車旗械
用有等其冠昏喪祭朝聘射御有儀即器以觀理無
非法象之所寓即文以觀義無非道義之所藏使人
思之而知所以敎守之而知所以禁奢者不得騁無
度之心儉者不得就茍簡之節竒者不得以亂常衺
者不得以害正此上下所以辨而民志所以定也
周氏諝曰天秩有禮自我五禮有庸哉蓋其以欲滅命
以人廢天者聖人不庸惟其天秩之所有是乃聖人
之所庸者也
鄭氏樵曰禮本於人情情生而禮隨之古者民淳事簡
禮制未有然斯民不能無室家之情則冠昏之禮已
萌乎其中不能無交際之情則鄉射之禮已萌乎其
中不能無追慕之情則喪祭之禮已萌乎其中自是
已還日趨於文燔黍捭豚足以盡相愛之禮矣必以
為未足積而至於籩豆鼎俎徐行後長足以盡相敬
之禮矣必以為未足積而至於賓主百拜其文非不
盛也然即其真情而觀之則籩豆鼎俎未必如燔黍
捭豚相愛之厚也賓主百拜未必如徐行後長相親
之密也大抵禮有本有文情者其本也享食之文揖
遜拜跪其本則敬而已喪紀之文擗踊哭泣其本則
哀而已祭祀之文祼獻酬酢其本則誠而已即其本
而觀之日用三牲可以為養啜菽飲水亦可以為養
襲冒絞紟可以為葬斂手足形亦可以為葬庭實旅
百可以為享瓠葉兔首亦可以為享區區之文不患
其不該也有其本而無其文尚可以義起有其文而
無其本則併與文俱廢矣何謂禮本情而已
朱子曰有許順之者說人謂禮記是漢儒說恐不然漢
儒最純者莫如董仲舒仲舒之文最純者莫如三䇿
何嘗有禮記中說話來如樂記所謂天髙地下萬物
散殊而禮制行矣流而不息合同而化而樂興焉仲
舒如何說得到這裏想必古來流傳得此個文字如
此
陳氏澔曰前聖繼天立極之道莫大於禮後聖垂世立
敎之書亦莫先於禮禮儀三百威儀三千孰非精神
心術之所寓故能與天地同其節四代損益世逺經
殘其詳不可得聞矣儀禮十七篇戴記四十九篇先
儒表章庸學遂為千萬世道學之淵源其四十七篇
之文雖純駁不同然義之深淺同異誠未易言也(以/上)
(論本經/精蘊)
綱領二(此篇論本經義/例及讀經方法)
仲氏長統曰周禮之經禮記之傳禮記作於漢儒雖名
為經其實傳也
陸氏徳明曰此記二禮之遺闕故名禮記
孔氏穎達曰上自游夏之初下終秦漢之際其間岐途
詭說雖紛然競起而餘風曩烈亦時或獨存於是博
物通人知今溫古考前代之憲章參當時之得失是
以所見各記舊聞錯綜鳩聚以類相附禮記之目於
是乎在 注者解書之名但釋義之人多稱為𫝊𫝊
謂𫝊述為義或親承聖旨或師儒相𫝊故云傳今謂
之注者謙也不敢傳授直注己意而已若然則𫝊之
與注各出巳情皇氏以為自漢以前為𫝊自漢以後
為注然王肅在鄭之後何以亦謂之𫝊其義非也
吕氏大臨曰禮記皆孔子門人所傳授之書雜收於遺
編斷簡者皆禮之變節也
胡氏寅曰禮記出於孔子弟子必去吕不韋之月令漢
儒之王制其次則經解儒行之類仍博集名儒擇冠
昏喪祭燕射相見之禮典以類相從然後可為一書
若中庸大學不可附之禮篇至於樂記表記學記坊
記燕居緇衣格言甚多當為中庸大學之次禮運禮
器玉藻郊特牲之類又其次也
鄭氏樵曰三禮之學其所以訛異者其端有四有出於
前人之所行而後人更之者如墨始於晉髽始於魯
廟有二主始於齊桓朝服以縞始於季康以至古者
冠縮縫今也衡縫同為一代而異制如此幸而遺說
尚存得以推考因革之故設其不存則或同或異無
乃滋後人之疑乎有出於聖人之門而傳之各異者
如曾子襲裘而弔子游裼裘而弔小斂之奠曾子曰
於東方子游曰於西方異父之服子游曰為之大功
子夏曰為之齊衰同師於夫子而異說如此況復傳
之羣弟子之門人則其失又逺也從而信之則矛盾
可疑從而疑之則其說有師承此文義不能無乖異
也有後世諸儒損益前代而自為一代之典者如吕
不韋作月令蓋欲為秦典故祭祀官名不純於周漢
博士欲為漢制故封爵不純於古後世明知二書出
於秦漢猶且曰月令為周制王制為商制況三禮之
書所成者非一人所作者非一時又烏能使之無乖
異也有専門之學欲自名家而妄以臆見為先代之
訓者如春秋之末執羔執雁魯人已不自知則禮之
所存蓋無幾也秦世灰滅殆盡漢世不愛髙爵以延
儒生寧棄黄金以酬斷簡諸儒各述所聞雜以臆見
而實未見古人全書故其說以霍山為南岳以大尉
為堯官以商之諸侯為千八百國以周之封域為千
里者四十九以分陜處内為三公以大宰大宗大卜
大士等為六官當時信其古書而無疑後世以其傳
久逺而不敢辨又安能使之無乖異乎禮樂之訛以
此後世議明堂或以為五室或以為九室或以為十
二室議大學或以為五學或以為當如辟雝或以為
當如膠庠或以為當如成均瞽宗夫明堂一也而制
有三大學一也而名有六此何以使後世無疑哉
有古文不通今多緣字以起義者如禮記謂禮者體
也義者宜也如此類甚多有隨方訓釋取舍不同者
土音不同而訓詁亦異是以熊安生本朔人則多用
北音鄭康成本齊人則多收齊音陸徳明本吳人則
多從吳音鄭注經字有不安有曰當作當為之語有
曰讀作讀如之語而不敢輕改聖賢之字
朱子曰禮記是解儀禮如儀禮有冠禮禮記便有冠義
儀禮有昏禮禮記便有昏義以至燕射之類莫不皆
然 儀禮禮之根本而禮記乃其枝葉禮記本秦漢
上下諸儒解釋儀禮之書又有他書附益於其間今
欲定作一書先以儀禮篇目置於前而附禮記於其
後如射禮則附以射義似此類已得二十餘篇若其
餘曲禮少儀又自作一項而以類相從若疏中有說
制度處亦當採取以益之 問吕祖謙三禮篇次曰
儀禮附記上篇士冠禮(冠義/附)士昏禮(昏義/附)士相見禮
鄉飲酒禮(鄉飲酒/義附)鄉射禮(射義/附)燕禮(燕義/附)大射禮
聘禮(聘義/附)公食大夫禮 覲禮 儀禮附記下篇
喪服(喪服小記大傳/服問閒傳附)士喪禮既夕禮士虞禮(喪大記/奔喪問)
(喪曾子問/檀弓附)特牲饋食禮少牢饋食禮有司徹(祭義祭/統附)
禮記篇次曲禮内則玉藻少儀投壺深衣(六篇為/一類)王
制月令祭法(三篇為/一類)文王世子禮運禮器郊特牲明
堂位大傳(與喪小記誤/處多當釐正)樂記(七篇為/一類)經解哀公問仲
尼燕居孔子閒居坊記儒行(六篇為/一類)學記中庸表記
緇衣大學(五篇為/一類)以上恐有未安幸更詳之 語録
賀孫因問祭禮附祭義如說孝許多如何來得曰便
是祭禮難附兼祭義前所說多是天子禮若儀禮所
存惟少牢饋食特牲饋食是諸侯大夫士禮兼是只
是饋食若天子祭便合有初閒祭腥等事如所謂建
設朝事燔燎羶薌意欲將周禮中天子祭禮逐件作
一總腦却以禮記附如疏中有說天子皆編出此書
所係甚大 小戴記之第一篇曲禮言委曲禮儀之
事所謂曲禮三千者也其可隨事而見者已包在經
禮三百篇之内矣此篇乃其雜碎首尾出入諸篇不
可隨事而見者故合而記之自為一篇而又多為韻
語使學者得以諷於口而存諸心蓋曲禮之記也第
十二篇内則蓋古經也鄭氏以為男女居室事父母
舅姑之法以閨門之内禮儀可則故曰内則今案此
必古者學校敎民之書宜以次於昏禮第十八篇學
記言古者學校敎人傳道授業之次第與其得失興
廢之所由蓋兼大小學言之舊注多失其指第十七
篇少儀言少者事長之節注疏以為細小威儀非也
第三十一篇中庸程氏以為其書成於子思其言與
大學相𤼵明熹聞之先君子常以大學者此篇之户
庭而此篇則大學之閫奥也第四十篇投壺第記主
人與客燕飲投壺之禮鄭氏以為實曲禮之正篇其
事與射相類於五禮屬嘉禮第四十二篇大學程氏
以為孔氏之遺書也第四十三篇冠義蓋漢儒所造
以釋冠禮之義第四十四篇昏義蓋漢儒所造以釋
昏禮之義第四十五篇鄉飲酒義四十六篇射義亦
漢儒所造燕義邦國禮聘義邦國禮 凡解釋文字
竊謂須只似漢儒毛孔之流畧釋訓詁名物及文義
理致尤難明者而其易明處更不須貼句相續乃為
得體蓋如此則讀者看註即知其非經外之文却須
將註再就經上理會自然思慮歸一功力不分而其
玩索之味亦益深長矣
馬氏廷鸞曰記不隨經注疏各為一書讀者不能遽曉
此猶易之彖象文言繫辭各自為書鄭康成所以欲
省學者兩讀而為今易也朱文公於禮書之離者合
之於易書之合者離之是亦學者所當知也
熊氏朋來曰漢儒於禮經輒改某字讀為某名如投壺
二算為純則純為全就讀為全蓋因儀禮鄉射經文
亦有二算為純注曰純猶全也一算為竒竒猶虧也
今讀為全不聞讀奇為虧如此類甚多(以上論本/經義例)
荀氏況曰禮者法之大分羣類之綱紀也故學至於禮
而止矣是之謂道徳之極
張子曰禮記大抵出於聖門二三子之𫝊講解各異故
辭命不能無害至於禮文不可不信己之言禮未必
勝如諸儒如有前後所出不同且闕之記有疑義亦
且闕之就有道而正焉
程子曰學禮者考文必先先王之意得意乃可以沿革
子厚以禮敎學者最善使學者先有所據守
周氏諝曰禮記雜記先王之法言而尚多漢儒附會之
疵此學者所宜精擇
陸氏佃曰小禮之不謹大禮之所自亡也
胡氏寅曰禮者其數可陳其義難知非仁且智則不能
本人情而約之於中道也故或先王有之而不宜於
今之世或古未之有而可以義起神而明之存乎其
人而已
鄭氏樵曰四十九篇之書雖雜出於諸儒傳記而不能
悉得聖人之旨然其文繁其義博學者觀之隨其所
入博而約之亦可弗畔未可以其言非盡出於夫子
而輕議之也
朱子曰凡禮有本有文自其施於家者言之則名分之
守愛敬之實其本也冠昏喪祭儀章度數者其文也
其本者有家日用之常體固不可以一日而不修其
文又皆所以綱紀人道之始終雖其行之有時施之
有所然非講之素明習之素熟則其臨事之際亦無
以合宜而應節是以不可一日而不講且習焉也
禮記須兼儀禮讀如冠禮喪禮鄉飲酒禮之類儀禮
皆載其事禮記只𤼵明其理讀禮記而不讀儀禮許
多理皆無安著處 禮記有說宗廟朝廷說得逺後
不切於日用若欲觀禮須就禮記節出切於日用常
行者如玉藻内則曲禮少儀看 學者博學而無以
約之則非學也何謂約禮是也禮者履也謂昔之誦
而說之者至是可踐而履之也然古禮非必有經蓋
先王之世上自朝廷下達閭巷其儀品有章動作有
節所謂禮之實者皆踐而履之矣則豈必簡策而後
傳哉其後禮廢儒者惜之乃始論著為書以傳於世
今禮記四十九篇則其遺說己學而求所以約之者
不可以莫之習也易曰知崇禮卑禮以極卑為事故
自飲食起居洒掃欬唾之間皆有儀節聞之若可厭
行之若瑣碎而不綱然惟愈卑故愈約與所謂極崇
之知殆未可以差殊觀也夫如是故成性存存而道
義出矣此造約之極功也
項氏安世曰禮記諸篇有相牴牾者蓋諸家各記其師
說如本朝諸臣之家喪祭之禮各成一書亦不能以
相似也世之好禮者總而集之以資考證可也必欲
曲為之說使貫為一家則妄也如檀弓之言喪或以
為大功或以為齊衰或以為當使之喪或以為不當
使之喪或以為可反或以為不可反如此類甚多惟
其各載姓名故後人不以為疑而得置議論取舍於
其間未有合為一說而並用之者也自餘諸篇不載
姓名則遂以為皆古之成禮也而一切强解而曲通
之可乎
魏氏了翁曰人生而莫不有仁義之性存乎其心經禮
三百曲禮三千聖人禀諸天道所以合内外之道而
節文乎仁義者也學者誠能即是僅存之禮而推尋
之内反諸心隨事省察充而至於動容周旋之會揖
遜征伐之時則是禮也將以宅天衷而奠民極豈形
器云乎哉
衞氏湜曰凌節而求躐等而議越見聞以談卓約後學
大患也矧會禮之家名為聚訟儻率意以去取其能
息同異之辨絶將來之譏乎(以上論讀/經方法)
綱領三(此篇論諸家醇/疵及後代禮儀)
范氏蔚宗曰漢興諸儒頗修藝文東京學者亦各名家
而章句多者或乃百餘萬言康成括囊大典網羅衆
家刪裁繁蕪刊改漏失自是學者畧知所歸王父豫
章君(李賢注蔚宗祖父寗字武/子晉武帝時為豫章太守)每考先儒經訓而長
於康成常以仲尼之門不能過也及傳授生徒並専
以鄭氏家法云
孔氏穎達曰大小二戴共氏而分門王鄭兩家同經而
異注爰從晉宋逮乎周隋其傳禮業者江左尤盛其
為義疏者南人有賀循賀瑒庾蔚崔靈恩沈重宣皇
甫侃等北人有徐遵明李業興李寳鼎侯聰熊安生
等其見於世者惟皇熊兩家而已熊則違背本經多
引外義又欲釋經文惟聚難義皇氏雖章句詳正微
稍繁廣又既遵鄭氏乃時乖鄭義此皆二家之弊未
為得也然以熊比皇皇氏勝矣雖體例既別不可因
循今奉敕刪理乃據皇氏以為本其有不備以熊氏
補焉
唐書列傳曰孔穎達八歳就學誦記日千餘言闇記三
禮義宗劉焯名重海内及請質所疑遂大畏服穎達
與顔師古王恭等受詔撰五經義疏凡百餘篇名曰
正義王恭講三禮别為義證甚精博
宋史藝文志曰初禮記月令篇第六即鄭注唐明皇改
黜舊文附益時事號御删月令升為首篇集賢院別
為之注厥後學者傳之而釋文義疏皆本鄭注遂有
別注小疏者詞頗卑鄙淳化初李至復請行鄭注秘
閣集議請如至奏
鄭氏樵曰康成用功於六經深矣而後世獨取周禮禮
記毛詩大扺鄭氏學長於禮而深於經制故先注禮
而後箋詩至於訓詁又欲以一一求合於周禮不知
詩人一時之言不可一一牽合也其注禮記以維申
及甫為仲山甫泮宫為頒政敎之宫至箋詩則以甫
侯為吕侯頖宫為學宫出於一人而為二說蓋由注
禮之時未見毛詩箋詩之時注禮已行不可追改箋
詩之時方悟注禮之失安知他日不悟箋詩之失乎
朱子曰禮記有王肅注煞好大史公樂書載樂記全文
注家兼存王鄭如陸農師禮象陳用之禮書亦該博
陳氏勝陸氏 鄭康成是個好人考禮名數大有功
王肅議禮必反康成 魏徵以小戴禮綜彚不倫
更作類禮二十篇數年而成太宗美其書錄置内府
今此書不復見甚可惜也 二程與横渠多是古禮
溫公則大槩本儀禮而參以今之可行者要之溫本
較穏若伊川禮則祭祀可用昏禮惟溫公者好
楊氏復曰先生所定家鄉邦國王朝禮専以儀禮為經
及自述家禮則又通之以古今之宜故冠禮則多取
司馬氏昏禮則參諸司馬程氏喪禮則本之司馬氏
後又以髙氏之書為最善及論祔遷則取横渠遺命
治喪則以書儀疏畧而用儀禮祭禮則兼用司馬程
氏而先後所見又有不同節祠則以韓魏公所行者
為法若夫明大宗小宗之法以寓愛禮存羊之意此
又家禮之大義所繫蓋諸書所未及而先生於此尤
拳拳也
晁氏公武曰禮記二十卷漢戴聖纂鄭康成注即所謂
小戴者也禮記正義七十卷唐孔穎達等貞觀中奉
詔撰禮記外傳四卷唐成伯璵撰義例兩卷名數兩
卷雖以禮記為目通以三禮言之劉明素序張幼倫
注唐月令一卷唐明皇删定李林甫注序謂吕氏定
以孟春日在營室不知氣逐閏移節隨斗建於是重
有删定景祐初改從舊文由是別行石經禮記二十
卷偽蜀張紹文所書首之以月令議者謂經禮三百
曲禮三千毋不敬一言足以蔽之故先儒以為首肆
情變亂甚無謂也明道中庸解一卷程顥撰楊中立
中庸解一卷楊時撰晁以道中庸解一卷游定夫中
庸解一卷芸閣禮記解十六卷吕與叔撰與叔禮學
甚精博中庸大學尤所致意也三禮圖聶崇義纂集
以鄭康成阮諶等六家圖刊定建隆二年奏之賜紫
綬犀帶奬其志學竇儀為之序太常禮書一百五十卷
陳祥道撰解禮之名物且繪其象甚精博丁丑三禮
辨李心𫝊撰小戴之書疑者一百九十八鄭氏注疑
者三百七十五各辨其所以而詳識之
熊氏禾曰儀禮為六經之一大小戴記如春秋之左氏
公穀乃其傳耳自安石廢罷儀禮但以小戴設科自
是學者更不知有禮經文公晚年為經傳通解大綱
細目具載歴門人黄勉齋楊信齋三世始克成書
魏氏了翁曰平江衞氏正叔自鄭注孔義陸釋以及百
家之所嘗講者會粹成書凡一百六十卷如范寗何
晏例各記其姓名以聽覽者之自擇
陳氏振孫曰吕與叔撰表記冠昏鄉飲酒鄉射燕聘義
喪服四制凡八篇又有曲禮上下中庸緇衣大學儒
行深衣投壺八篇此朱晦庵所傳本刻之臨漳射垜
書坊稱芸閣吕氏即其書也方慤禮記解二十卷以
王氏父子獨無解義乃取其所撰三經義及字說申
而明之其所解文義亦明白馬睎孟禮記解七十卷
亦宗王氏朱子曰方馬之解合當參考儘有說得好
處不可以其新學而黜之也兼山中庸說一卷郭忠
孝撰中庸集解二卷會稽石塾集凡十家之說晦庵
為之序大學中庸章句或問各三卷晦庵撰復取石
子重所集解删其繁亂名以輯畧曲禮學記口義各
二卷戴溪撰中庸說項安世撰禮象十五卷陸佃撰
以改舊圖之失陳祥道禮書百五十卷論辨詳博閒
以繪畫於唐代諸儒之論近世聶崇義之圖或正其
失或補其闕
衞氏湜曰漢鄭康成因盧植事馬融以禮記融植所考
定並為之注唐孔穎達先與朱子奢李善信賈公彥
柳士宣范義頵張權等取皇熊二家義疏删定續與
前修疏人及周元達趙君贊王士雄等覆更詳審為
正義凡七十卷邱氏光庭書四卷摭經典訓釋之不
同復以經典證之中山成氏伯璵為禮記外傳四卷
吳郡張氏幼倫注凡一百一十條雖舉禮記為目實
兼三禮言之宋臨川王安石有禮記𤼵明一卷長樂
劉彝七經中義一百七十卷内禮記四十卷李氏格
非有精義十六卷隨所見為之義横渠張氏有記說
三卷馬氏睎孟有解七十卷延平周氏諝解王制禮
運禮器郊特牲玉藻學記樂記祭法祭義祭統經解
哀公問仲尼燕居孔子閒居中庸表記大學共十七
篇不見於中興館閣書目山陰陸氏佃解禮四十卷
又新說四卷嚴陵方氏慤有解義二十卷藍田吕氏
大臨有禮解十卷館閣書目止一卷長樂陳氏祥道
有講義二十四卷禮書百五十卷禮例詳解十卷案
方馬陸三家書坊鋟板傳於世方氏最為詳悉有補
初學然雜以字說且多牽合大為一書之累閒有與
長樂陳氏講義同者馬氏陸氏皆畧馬氏大學解義
與藍田吕氏同朱文公或問以為吕氏今從之陸氏
說多可取間有穿鑿亦字學誤之也廬陵胡氏銓有
禮記傳十八卷石林葉氏夢得有解禮記十九篇其
仲子模過庭錄時有論說新安朱文公中庸大學章
句或問之外其他說散見於語錄儀禮經傳通解廣
安游氏桂為經學十二卷金華應氏鏞為纂義二十
卷慶源輔氏廣取注疏及方馬胡陸諸家倣吕氏讀
書記編集間有已說金華邵氏淵解曲禮王制樂記
中庸大學五篇以上解義惟方氏胡氏始末全備自
餘多不過二十篇或三數篇或一二篇或因講說僅
十數篇其他如語錄如文集凡有及於禮經可以開
曉後學者裒輯編次粗已詳盡
陳氏澔曰近世應氏集解於雜記大小記等篇皆闕而
不釋噫愼終追逺其關於人倫世道非細故而可畧
哉(以上論諸/家醇疵)
班氏固曰秦燔詩書陳涉之王也魯諸儒持孔子禮器
徃歸之及髙帝圍魯魯中諸儒尚講習禮弦歌之音
不絶豈非聖人遺化好學之國哉於是諸儒始得修
其經學講習大射鄉飲之禮叔孫通作漢禮儀因為
奉常諸弟子共定者咸為選首漢興言禮則魯髙堂
生
范氏蔚宗曰光武中興愛好經術先訪儒雅於是立五
經博士各以家法敎授禮大小戴太常差次總領焉
中元元年初建三雍明帝親行其禮建初中大會諸
儒於白虎觀考詳同異肅宗親臨稱制如石渠故事
歐陽氏修曰自漢以來史官所記事物名數降登揖讓
拜俛伏興之節皆有司之事耳所謂禮之末節也然
用之郊廟朝廷自搢紳大夫從事其間者皆莫能曉
習而天下之人至於老死未嘗見也況欲識禮樂之
盛曉然諭其意而被其敎化以成俗乎嗚呼習其器
而不知其意忘其本而存其末又不能備具所謂朝
覲聘問射鄉食饗師田學校冠昏喪葬之禮在者幾
何自梁以來各立一家之學唐初即用隋禮太宗時
房元齡魏徵等因隋之禮增以天子上陵朝廟養老
大射講武讀時令納皇后皇太子入學太常行陵合
朔陳兵大社等是為貞觀禮髙宗時又詔長孫無忌
杜正倫李義府李友益劉祥道許圉師許敬宗韋琨
等增之為一百三十卷是為顯慶禮其文雜以式令
而義府敬宗方得幸多希旨傅會事既施行議者皆
以為非詔復用貞觀禮由是終髙宗世貞觀顯慶二
禮兼行而有司臨事逺引古義與二禮參考增損之
無復定制開元十年以韋縚為禮儀使掌五禮王嵒
疏請删去禮記舊文而益以今事付集賢院議學士
張說以為禮記不刊之書去聖久逺不可改易而貞
觀顯慶禮前後不同宜加折衷詔徐堅李銳施敬本
撰述未就而銳卒蕭嵩代銳為學士奏王仲邱撰定
一百五十卷是為開元禮由是唐之五禮之文始備
而後世用之雖時小有損益不能過也貞元中王涇
為郊祀錄十卷元和中韋公肅又錄開元以後禮文
損益為禮閣新儀三十卷王彥威為曲臺新禮三十
卷又採元和以來王公士民昏祭喪葬之禮為續曲
臺禮三十卷嗚呼考其文記可謂備矣以之施於貞
觀開元之間亦可謂盛矣而不能至三代之隆者具
其文而意不在焉此所謂禮樂為虚名也哉
宋史禮志曰宋太祖因太常聶崇義重集三禮圖詔詹
事尹拙等儒學之士詳定之
葉氏夢得曰國初循用唐開元禮舊書一百五十卷開
寳初始命劉溫叟盧多遜扈蒙三人補緝遺逸通以
今事為開寳通禮二百卷又義纂一百卷以𤼵明其
旨嘉祐初歐陽文忠公知太常禮院請續編以姚闢
蘇洵掌其事為太常因革禮一百卷議者病其太簡
元豐中蘇子容復議詳定禮文至大觀中始修之鄭
達夫主其事然時無知禮舊人書成頗多牴牾後亦
廢
陳氏祥道曰先王之治以禮為本晚周而下先王之制
寖以掃地天下學者亦失其傳故隨武子不知殽烝
孟僖子不知相禮范獻子不知問諱曾子不知奠方
魯不知尚羔衞不知立市則時之知禮者蓋鮮矣漢
興叔孫通之綿蕞禮儀徒規當時之近功而其法失
於太卑魯二生之論禮樂必期百年然後興而其言
失於太髙賈誼有修禮之議而困於絳灌曹褒有定
禮之議而沮於酺敏傅咸極論於晉而誚於流俗劉
蕡𤼵策於唐而棄於一時繇漢以來千有餘歳禮之
道終不眀禮之事終不行也
朱子曰六經之道同歸禮樂之用為急遭秦滅學禮樂
先壊漢晉以來諸儒補緝竟無全書其頗存者三禮
而已周官一書固為禮之綱領至其儀法度數則儀
禮乃其本經而禮記郊特牲冠義等篇乃其義疏耳
前此猶有三禮通學究諸科禮雖不行而士猶得以
誦習而知其說熙寧以來王安石變亂舊章廢儀禮
而獨存禮記之科棄經任傳遺本宗末其失已甚而
博士諸生又不過誦其虚文以供應舉至於其閒亦
有因儀法度數之實而立文者則咸幽㝠而莫知其
源一有大議率用耳學臆斷而已
魏氏了翁曰河間獻王二戴馬鄭相與保殘補壊晉宋
隋唐諸儒迭為𤼵揮三禮得不盡亡自正義既出先
儒全書泯不復見自列於科目博士諸生亦不過習
其句讀以為科録計至金陵王氏又罷儀禮取士僅
存周官戴記之科而士之習於禮者滋鮮就戴記而
言如檀弓喪禮諸篇既指為凶事罕所記省則其所
業僅一二十篇耳茍不得其義則又諉曰此漢儒之
說也棄不復講所謂解說之詳僅有方馬陸陳諸家
然而述王氏之說者也惟關洛諸大儒上接洙泗之
𫝊乃僅與門弟子難疑答問而未及著為全書嗚呼
學殘文闕無所因襲驅一世而㝠行焉豈不重可歎
哉
明史禮志曰明太祖初定天下開禮樂二局廣徵耆儒
分曹究討洪武二年詔諸儒臣修禮書明年告成賜
名大明集禮其書準五禮而益以冠服車輅儀仗鹵
簿字學音樂凡升降儀節制度名數纎悉畢具又屢
敇議禮臣李善長傅瓛宋濂詹同陶安劉基魏觀崔
亮牛諒陶凱朱升樂韶鳯李原名等編輯成集且詔
郡縣舉髙潔博雅之士徐一䕫梁寅周子諒胡行簡
劉宗弼董彝蔡深滕公琰至京同修禮書(以上論後/代禮儀)
欽定禮記義疏卷首